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さとう社会問題研究所コラム


今回は、下記でご紹介している刑事裁判の判決についてお話ししたいと思います。

ツイッターなどで話題になっていたのでご存知の方も多いと思います。

特に、実の父親が娘に対して行った性犯罪と言う事で、

女性やDV被害者、性犯罪の被害者の皆さんには、心痛極まる判決であったと思いますし、

わたくしも、虐待被害者なので、こういう畜生はブチ殺してやりたい気持ちではありますが、怒るだけでは何の説明にも解決にもなりません。

刑法学ではありませんが、法律学専攻の職業支援者としての立場から簡単に検討してみたいと思います。


今回の件について、わたくしは、「市民社会の敗北」だと受け止めています。

ただ、人心を解さぬ裁判官に敗北したのではなく、「立法不作為」(法律の不備)に敗北したと考えています。


まず、今回の判決に対し、SNSでのご意見を拝見していたところ、みなさん、被害者の心情をおもんばかり、裁判官に対する怒りは述べられていますが、

今回の判決に至った法的な説明はあまり見かけず、中には刑事裁判や刑法を無視したものもあり、

今回の「市民社会の敗北」も、この「感情的な反応に止まっている事」と「法的な理解を踏まえた説明ができない事」にあると考えています。


では、わたくしが考えたこの話のポイントを挙げてみましょう。

1、準強制性等罪は、性交等が認められても抗拒不能認められなければ無罪となる法律である事

2、そもそも、どうして構成要件が「抗拒不能」のままなのか?

3、被害者の供述が信用されなかったのは、検察官の責任である

という3点に集約されると考えています。


まず、問題となった「準強制性交罪」とは何か?

こういう話題をする際には、何よりも、法規を確認する必要があります。

法規も確認しないで「こんなのおかしい」と言ったところで、無知を振りかざして強弁しているだけです。

法文を確認し、何がどうおかしいのか?を指摘する事が最低条件と言えるでしょう。


(準強制わいせつ及び準強制性交等)

第百七十八条 人の心神喪失若しくは抗拒不能に乗じ、又は心神を喪失させ、若しくは抗拒不能にさせて、わいせつな行為をした者は、第百七十六条の例による。

2 人の心神喪失若しくは抗拒不能に乗じ、又は心神を喪失させ、若しくは抗拒不能にさせて、性交等をした者は、前条の例による。


わたくしは弁護士でも刑法学専攻でもなかったため、当時は充分にチェックしていなかったのですが、

平成29年に刑法改正が行われており、以前より国際人権委員会などから指摘を受けていた部分の改正も行っています。

たとえば、女性のみが被害者として限定されており、日本国憲法第14条第1項に違反していた強姦罪などについて、

「女子」を「人」、「姦淫」を「性交等」など、男性も被害者になる様に、という形で改正がされています。


つまり、この法律は、社会の性犯罪の厳罰化を望む声を受け、新たに作られた法律であるという事も可能だという事です。


そして、「1、準強制性等罪は、性交等が認められても抗拒不能認められなければ無罪となる法律である事」についてです。

刑法の解釈は極めて厳格で、裁判官による解釈も厳格です。

「柔軟性がない」と仰る方も多いでしょうが、恣意的な解釈で市民を無実の罪に陥れぬ様、敢えて柔軟な解釈を禁じる事で市民の人権を守るシステムを作り出したという歴史があります。


この柔軟性のお話は、SNSで見かけたご意見の中にあった、

「父親が娘に性行為をしたのだから、抗拒不能とか関係なく、それだけで有罪にしないのがおかしい」

というものにも通じています。

今回の罪状である「準強制性交等」では、性行為があったかというのは、条件の一つに過ぎず、「抗拒不能」という条件が成立していないと判断した以上、裁判官は無罪にする以外選択肢がありません。


そして、ここで「2、そもそも、どうして「抗拒不能」が構成要件なのか?」を考えます。

ここでも、まず言葉の意味を調べてみる必要があります。

「抗拒」と「抗拒不能」です。

日常、あまり使わぬ言葉ですので、知っている方も改めて調べてから考える慎重さが必要でしょう。


「抗拒」とは、『大辞林』によると「抵抗し拒否すること」ですね。まあそのままです。


そして、「抗拒不能」とは、『デジタル大辞泉』によると、

「刑法で、心神喪失ではなく、身体的または心理的に抵抗することが著しく困難な状態。例えば、手足を縛られている、酩酊している、高度の恐怖・驚愕?(きょうがく)?・錯誤に陥っているため、意思決定の自由を奪われている状態をいう。」

との事です。


先にも述べましたが、刑法の解釈は極めて厳格であるため、この「抗拒不能」という構成要件も当然、厳しく求められます。

恐らく、裁判所の法解釈では、この抗拒不能とは、「抗拒が不能」、抵抗する余地がわずかでもあれば認められないと言う事なのでしょう。

判決でも、「娘の抵抗などで要求を回避できたことがあったこと」を指摘して事件当時、抗拒不能状態ではなかったと指摘しています。


わたくしが、この記事を見て最初に考えたのは、平成29年の刑法改正の際、専門家も国会議員も、この「抗拒不能」という言葉に対し、誰一人疑問を抱かなかったのか?という事でした。

今回の裁判でもお分かりの通り、DVや虐待家庭や機能不全家族、イジメやパワハラなども、加害者の心理状態や状況により、その心理的な支配、抑圧には強弱があります。

裁判官が指摘した、「娘の抵抗などで要求を回避できたことがあったこと」というのは、正にこの点です。


ただし、被害者にとっては、加害者との関係は常に命がけの綱渡りだという事が少なくありません。

少なくとも、わたくしにとって、父母との関係は命がけの綱渡りでした。


むしろ、この抑圧や心理的な支配が固定されたものであった方が、

被害者は加害者の逆上のリスクを抱えながら綱渡りの日々を過ごさなくても良いのかも知れません。


「諦めの境地」と言えば冷たい言葉のように感じるでしょうが、

機嫌良く階段を下りて上がってきた虐待父から、「お前のせいで祖母から文句を言われた」と、いきなり殴られて蹴られ踏みつけられるのです。

今日は殴られないで終わる事ができるという、小さな安心が一瞬で崩れる絶望です。


しかしながら、抗拒不能と言うのは、そういうものを踏まえた上でも抵抗の余地があってはならないという意味です。

そして、それは法律として定められており、法律を作ったのは裁判官ではなく、我々が選挙で選んだ国会議員であり、それを検討したのは法律学者でしょう。


そして、当時は「性犯罪の厳罰化」として大きく報じられていた事もあり、もしかしたら、パブリックコメントなど、我々にも意見をする機会があったかも知れない。


その時に、我々は、「準強制わいせつ及び準強制性交等にある抗拒不能は要件が厳しすぎないか?」と、声を挙げていたのか?


もしかしたら、密室で犯罪とは無縁の人たちによって決められた内容を、ただ「性犯罪の厳罰化」として喜んでいたのか?


わたくしは、このニュースに対し、裁判官に対する怒りの前に、「立法不作為」(法律の不備)であり、

刑法を改正し、性犯罪を厳罰化しておきながら、改正前と同じ言葉、日常では誰も使わないような言葉をそのまま引き継いで今回の判決に至った市民社会の敗北だと感じました。


最後は、「3、被害者の供述が信用されなかったのは、検察官の責任である」についてです。

これは、幾つかの意味がありますが、主に、

1、有罪の立証責任は検察官にあり、裁判官には被害者の証言を信じる義務はないという刑事裁判の原則

2、かつての自白偏重、被害者の供述偏重に対する反動

という2つの意味になります。

2つに分けて上げましたが、この2つは密接に関連しています。


この件に対し「被害者に寄り添っていない」という怒りの声が多かったのですが、

証言を採用するか否かは、証拠に対する評価であり、被告人にとっても重要な点です。

ここで被害者に寄り添って証拠の評価をするという事は、被告人を有罪にするため、裁判官が自ら証拠を捏造しているのと同じです。


「2、かつての自白偏重、被害者の供述偏重に対する反動」についてです。

近年、痴漢の無罪、冤罪も目立つようになり、この問題点は皆さんもご存知かも知れません。

痴漢で無罪が増えるようになったのは、近年、痴漢で「触った、触ってない」が争点となっても科学捜査の進歩により、容易に客観的判断ができるようになり冤罪が増えてしまった。

その冤罪被害者による検察や警察への反撃として、自白偏重、被害者の供述偏重が指摘される様になったからです。


そのため、被害者となる方には、一切落ち度のない事なのですが、過去のいい加減な裁判により状況が厳しくなってしまった。

その影響は刑事である痴漢だけではなく、民事であるDVにも見られるようになりました。

警察や検察だけではなく、DV被害者の支援活動でも、いい加減な対応により、被害を訴えても信用されない事例も見られるようになりました。


さとう社会問題研究所にも、DV被害を訴えながら、裁判では、精神疾患を理由にDV被害の主張が認められなかったというご相談を頂いた事があります。


「被害者に寄り添う」と言いながら、いい加減な捜査や被害者保護などを行ってきた結果、それらが明るみになる事で、無関係な被害者が不利益を被るようになってしまった。

それに対し、いい加減な支援者たちはもちろん、誰一人責任を取る事なく、過去の冤罪の被害者も未来の本物の被害者も、不当に切り捨てられたまま放置されてしまう。

「市民社会の敗北」とは正にこの事だと思います。


今回の最後に、「市民社会の敗北」の原因は何か?です。

ここまで述べて来たように、今回の裁判の結果は、立法不作為がもたらしたものだと言う事です。

性犯罪の厳罰化の声を受けて改正された刑法でしたが、その結果、この事件の様に、被害者の年齢の壁や犯罪の構成要件、つまり法律の不備や欠陥は必ずあります。

こういう時、我々はどの様に考え、その考えた結果のためどう動くのか?が大切だと思います。


もちろん、SNSで見られた皆さんの怒りの声は、その一つだと理解しています。

怒りは原動力となるものなので、とても大切なものではありますが、SNSで怒りを吐き出して終わるのではなく、

その先の具体的なものに繋げる様、みなさんを含めた社会全体で考えるようにしていただければと思います。


本当は、もう少し詳細にお話ししたかったのですが、今回はこの辺で。



『娘への性的暴行の罪に問われた父親に無罪判決 名古屋地裁岡崎支部』


暴力や性的虐待などで抵抗出来ない精神状態であるのを利用し、19歳の娘と性交した罪に問われた父親に対し、無罪判決が言い渡されていたことが分かりました。

判決によりますと、父親の男性は、おととし8月と9月、愛知県内の勤務先などで、暴力や性的虐待により抵抗が出来ない精神状態に陥っていた当時19歳の娘と性交したとして、準強制性交等の罪に問われていました。

3月26日に、名古屋地裁岡崎支部で行われた判決公判で、鵜飼祐充裁判長は「継続的な性的虐待で、精神的支配下に置いていた」などとして、性的虐待が中学2年のころからあったと認定。

一方で、娘の抵抗などで要求を回避できたことがあったことについて触れ、「被害者が抵抗不能な状態だったと断定するには疑いが残る」として、父親の男性に無罪判決を言い渡しました。



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2019年4月12日 著作物です。無断転用は禁止します。 さとうかずや(さとう社会問題研究所)



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