「裁判所による面会交流制度の運用を監視する会」は、2014年7月6日、宇都宮家庭裁判所及び東京高等裁判所第12民事部に対し、以下の内容の意見書の提出を行いました。
請願書は郵送の形式によって行いました。

請願解説:

「裁判所による面会交流制度の運用を監視する会」は、さとう社会問題研究所のクライアントでもある、闘う主婦!さんとの任意団体です。

詳細は、こちらをご確認ください。

闘う主婦!さんのブログ


請願書
(注1:事件の特定につながる情報、当事者の個人情報に該当する部分は表示しておりません)
(注2:この件に対しても、当会は2014年6月2日に請願しています)


請願事項(宇都宮家庭裁判所提出分):
 我々、「裁判所による面会交流制度の運用を監視する会」(以下、当会)は、宇都宮家庭裁判所に対し、客観的な第三者としての立場から以下の意見を提出し、今後の面会交流制度の運用に反映していただくことを強く希望します。

 尚、本請願書は、東京高等裁判所第12民事部にも提出しています。

請願事項(東京高等裁判所第12民事部提出分):
我々、「裁判所による面会交流制度の運用を監視する会」(以下、当会)は、東京高等裁判所第12民事部に対し、客観的な第三者としての立場から以下の意見を提出し、今後の面会交流制度の運用に反映していただくことを強く希望します。

 尚、本請願書は、宇都宮家庭裁判所にも提出しています。

請願趣旨:
当会は、本来、手続の終了した個別の事案についての意見を申し上げるものではありません。
しかしながら、当会では、宇都宮家庭裁判所の平成○年(家)第○号面会交流申立事件および東京高等裁判所平成○年(ラ)第○号 面会交流審判に対する抗告申立事件における、「子の福祉」および「面会交流」に対して裁判所が行った乱暴かつ安易な判断を、現在の調停において、一方当事者が面会交流を拒絶する理由として用いているという、当事者○○○さんからの悲痛な叫びを受けています。
今回は、すでに裁判所による安易かつ乱暴な交流遮断の判断による被害事例が出ている事もあり、今後の調停や審判で、同様の事例により、子供や社会の利益がさらに阻害される恐れがあります。そのため、日本国の主権者の一人として、日本国憲法第16条に基づき、敢えて、意見書の形で過去の判断の誤りを指摘し、そのリスクを述べさせていただくものです。


請願理由:

以下では、宇都宮家庭裁判所平成○年(家)第○号面会交流申立事件および東京高等裁判所平成○年(ラ)第○号面会交流審判に対する抗告申立事件の中から、当会が検討及び記載が不足していると考える箇所を取り上げ、筆者の独自の見解と併せ、そのリスクを説明する。

一、当会が検討及び記載が不足していると考える箇所とそのリスク

1、宇都宮家庭裁判所平成○年(家)第○号面会交流申立事件

審判書 理由より

「相手方は,申立人と未成年者の面会交流について,申立人は,未成年者に対する扱いが自分勝手であり,面会交流を認めれば,未成年者に悪影響が及ぶおそれがあるし,申立人が未成年者を連れ去るおそれもあるので,たとえ面会交流が認められても,これに協力するつもりはないと述べた。」

「2 以上の事実をもとに,本件の面会交流の在り方について検討するに,面会交流は,子の利益及び福祉のために認められるものであり,これを第一義に考慮すべきものであるから,面会交流を実施することによって,子の利益及び福祉を害し,これに反するような事態が予想される場合には,これを禁止,あるいは,一定限度制限すべきものと解するのが相当である」

「相手方は,申立人の性格が独りよがりで,相手方に配慮する所がない,未成年者の扱いにも配慮が足りないなどとして,申立人を嫌悪する気持ちが強く,申立人と同居することを拒否するばかりか,離婚も辞さない考えでいること,このようなことから,相手方は,申立人の未成年者との面会交流についても,未成年者に悪影響を与えるおそれがあり,さらには,未成年者が申立人に連れ去られる可能性もあるなどとして,極めて拒否的であること,そして,未成年者は,未だ1歳9か月足らずであり,申立人と未成年者の面会交流を実施するには,相手方の協力が不可欠と解されるところ,上記のとおり,相手方は,面会交流に拒否的であり,これに協力することは現時点で期待できないことなどに照らすと,現段階で申立人と未成年者の直接的な面会交流を認めることは,時期尚早であり,相当でないといわざるを得ない。もっとも,本件は,将来的には環境を整え,面会交流の円滑な実施を実現するようにすることが期待される事案といえるところ,写真を通じての間接的な面会交流は,こうした将来の面会交流の準備としては意味のあるものといえるし,相手方は,このようなやりとりまで拒否するものとは認められないから,本件においては,当分の間,このような写真のやりとりによる間接的な面会交流を図ることとするのが相当である。」


 裁判所によるあらゆる法的手続は、「誰か」の野心を叶えるためのものであってはならない。それは、家事審判においても同様である。
 しかしながら、この審判では、どういう面会交流が子供の福祉に適うのかを検討しないまま、一方当事者の心情と事情に対する裁判所からの格別の配慮だけが交流遮断の理由とされていることが明白である。

 その上で、宇都宮家庭裁判所の近藤壽邦裁判官は「面会交流を禁止、制限すべき場合」に該当する「面会交流を実施することによって,子の利益及び福祉を害し,これに反するような事態が予想される場合」を広義に解しすぎている。さらに言えば、「たとえ面会交流が認められても,これに協力するつもりはない」という、相手方の強い拒否感に迎合し、交流遮断の口実とするために、恣意的な解釈を行ったと指摘する。

 子供の福祉や利益における相手側の心情や事情とは、その一部ではあったとしても、その主軸ではないはずである。そして、子の福祉の一部として検討されるべき「親の心情や事情」とは、監護親や同居親のみのものではなく、別居親や非監護親のものも含まれなければ、子供の福祉や利益を捉えたものと言うことはできない。
そもそも、離婚を請求する時点で子供の福祉や利益は十分に損なわれていると考えなければならない。同居親は子供に対し、その責任を負い果たす義務がある。

 そして、相手側の面会交流に対する拒否的な態度は、婚姻関係が破綻した事による○○さん個人に対する拒否的な感情に基づいたものであったとしても、それは子供の福祉や利益とは無関係である。民法第766条第1項では「子の利益を最も優先して考慮しなければならない」と定められていて、裁判官には憲法上の身分保障があり、かつ、法律に逆らう権限が与えられていない以上、近藤裁判官は、自らの責任において判断をしなければならなかった。
 しかしながら、近藤裁判官は、あくまで、「たとえ面会交流が認められても,これに協力するつもりはない」という拒否感に迎合し、当事者の一方に過ぎない相手側の心情にのみ格別の配慮を示し、「未成年者の直接的な面会交流を認めることは、時期尚早」だから「相当ではないといわざるを得ない」と述べているが、これは、「相手方が嫌だと言っているから○○さんの請求は認められない」と述べているだけである。
もちろん、子供の福祉や子供の利益を考慮したものではなく、面会の実現に向けて具体的な検討の努力もしていない事を誤魔化しただけのものであると言わざるを得ない。

 まして、一方当事者である片親の交流拒絶の主張を、子供の福祉として全面的に受け入れ、同じ片親の主張を子供の福祉を害するとして全面的に否定した近藤裁判官の安易にして乱暴な判断は、自由心証を口実に、法と司法の傲慢を振りかざしただけのものであり、子供と家庭の未来における利益を将来的に毀損しただけの、ただの暴挙であると筆者は断じる。

2、東京高等裁判所平成○年(ラ)第○号面会交流審判に対する抗告申立事件

決定書 理由より

「しかし,未成年者は,生後7か月のころに抗告人と別居したものであり,その後1年以上が経過していることによれば現在の未成年者の愛着対象は,専ら母である相手方であるというほかないところ,未成年者の年齢(1歳10か月)からみて,愛着対象である相手方から引き離されると,精神的安定を保てる状況にはないというべきである。したがって,抗告人との面会交流の実施に当たっては、相手方の協力が不可欠な状況にあり、また、面会交流の実施のための事務的な連絡についても,相手方が行う必要がある状況にある。しかるに,抗告人は,離婚を強く望んでいる相手方に対し,同居を強く求め,同居を求める審判まで申し立てている。加えて,一件記録によれば,抗告人は,調停期日において感情的となり号泣することもあったことが認められる。そうであるとすると,抗告人が,面会交流の場において,あるいはその連絡の段階において,相手方に同居を求めるなどし,その結果,抗告人,相手方いずれか,あるいは双方が感情的な言動をし,これにより未成年者が混乱するおそれがあることは否定できないところである。このような事態が,未成年者の福祉の見地からみて相当ではないことは明らかである。そうすると,現時点においては,直接の面会交流は相当ではないというほかなく,当分の間は,将来の直接的な交流に向けて間接的な交流に止めるのが相当である。そして,未成年者が未だ手紙やメール,電話等による交流ができないことによれば,相手方に対し,定期的に未成年者の近況を示す写真の送付を命じ,相手方がこれを履行しない場合には履行勧告により履行の確保ができるようにしておくことが相当である。」

 この決定において、東京高等裁判所の難波孝一裁判官、野口忠彦裁判官、飛澤知行裁判官は、○○さんと長女との交流遮断の理由として、○○さんの性格や言動を原因に挙げ、「これにより未成年者が混乱するおそれがあることは否定できないところである。このような事態が,未成年者の福祉の見地からみて相当ではないことは明らかである」と述べているが、その危険の回避方法は、適切な監視者を配するなど、面会交流の条件の中に含めれば良く、国民と社会に重大な影響を与える裁判所が交流遮断の理由として用いることは極めて乱暴かつ安易である。
そして、裁判所による交流遮断とは、未来に及ぶ親子の関係の可能性を司法の手で閉ざす行為であり、社会の利益を毀損し、子の福祉に反していると指摘する。

 また、「当分の間は,将来の直接的な交流に向けて間接的な交流に止めるのが相当である。そして,未成年者が未だ手紙やメール,電話等による交流ができないことによれば,相手方に対し,定期的に未成年者の近況を示す写真の送付を命じ,相手方がこれを履行しない場合には履行勧告により履行の確保ができるようにしておくことが相当である」としているが、○○さんによると、相手方は、○○さんに対して写真の送付を行うという、子供に対する親としての責任も果たしていない。さらには、「裁判所は子供に合わせなくても良いと言っている」という趣旨の主張を現調停で行っているとの事である。
この事態は裁判官であるならば、十分に予見可能であり、また、予見できなければならなかった子供の未来に対する危険であり、裁判官の重大な過失であると言わざるを得ない。さらに、この事態は、難波裁判官、野口裁判官、飛澤裁判官が自分達の野心に過ぎない安易かつ乱暴な判断により、裁判所として国民に対し負の教育を行ったことを意味している。相手方にとっても、子供の福祉を口実に、自らの願望に過ぎない交流拒絶に司法が墨付を与え、未来の面会交流の可能性も閉ざしてしまったという重大な事実である。これは、社会の利益と子供の福祉に対する重大な背信行為であると指摘する。

 そもそも、「相手方がこれを履行しない場合には履行勧告により履行の確保ができるようにしておくことが相当である」という事を交流遮断の理由にするのであれば、相手方が交流拒否を明確にしている以上、直接交流を認めても同じ事であり、裁判所が間接交流の形で交流遮断をする必要も無く、東京高等裁判所の難波裁判官、野口裁判官、飛澤裁判官が、宇都宮家庭裁判所の近藤壽邦裁判官が相手方の主張に迎合して行った格別の配慮を許容したに過ぎないものである。

 もちろん、裁判官には、日本国憲法第78条で身分保障がされているが、それは、裁判官の無責任や暴挙を許すためのものではない。また、誰かの野心を叶えるための格別の配慮を行い、司法の国民に対する公平性を損なう背信行為を認めたものでもない。 法の弾劾を受けなくとも、子供の福祉を盾にして子供の福祉を踏みにじった事実、自ら司法への信頼を損なわせた事実は免れないものであると断じる。


二、司法による第三者機関の活用の提案を見ない振りをしての交流遮断の判断は子供の利益を考慮したものではない

 今回、当会に悲痛な叫びを届けてくださった、当事者○○○さんに限らず、横浜家庭裁判所の平成○年(家)第○号、○号面会交流申立事件の当事者○○○さんも、面会交流支援をしている第三者機関の活用の提案を行ったものの、裁判所の判断の中では、その提案を完全に無視された形で交流遮断の判断を下されている。(注2)

 第三者機関の活用に関しては、一部の家庭裁判所では検討がなされているとうかがっているが、調停や審判の期日の中で、当事者からの提案に基づき、第三者機関の具体的な活用に関する検討を行ったという事例を筆者自身は聞いたことが無く、未だ、子供の福祉と称しながら、何かを考える努力もせず、安易かつ乱暴な交流遮断で子供と社会の利益を毀損する道を選ぶ裁判官が多いのが実情であると思われる。

 しかしながら、「面会交流制度」とは、離婚や別居に伴い、当然のように行われている裁判所による交流遮断に対する多くの異議を背景として成立した、いわば、社会の歪みを解消するための一つの国民的努力の結晶と言うべきものである。
仮に、面会交流が法律上の権利ではないとしても、裁判所による親子の交流遮断の権利が容認されていると解するのは、主権者である日本国民の社会に対する異議を無視し、その努力を踏みにじるだけの民法第766条の曲解に他ならない。

 そして、面会交流支援の活動は、NPOなり任意団体なり、主権者である国民が、社会と子供の利益を実現するための具体的な活動である。仮に、申立人からの提案がある場合、これは、「親としての子供に対する義務を果たそうとする具体的な姿勢」として評価されるべきものである。面会交流を行う際の具体的な方法として、一切の検討を行わないまま、相手方の「子供に逢わせたくない」という野心に裁判所が加担し、申立人の親としての努力を貶め続ける裁判所の判断は、裁判官が、憲法上の身分保障に甘え、物言わぬ国民を侮り、子供と社会の利益のため、何らの努力を払っていないことの証左であると指摘する。


三、面会交流に「美しい親子関係」の幻想を求める必要は無い

 1、面会交流に対する幻想は交流遮断しかもたらさない

 宇都宮家庭裁判所の近藤壽邦裁判官、東京高等裁判所の難波孝一裁判官、野口忠彦裁判官、飛澤知行裁判官は、「たとえ面会交流が認められても,これに協力するつもりはない」という、相手方の言葉に何らの疑問を抱く事もなく観察も行わず、ただ、強い拒否感として受け止め、相手方の主張する○○○さんの性格上の問題、その性格上の問題ある人物との面会交流は子供の福祉に有害の主張を無批判に受け入れ、交流遮断の理由としている。

裁判所が子供の福祉と称しながら、交流遮断を求める一方当事者の野心のため、格別の配慮を行う背景には、子供の「福祉」や「利益」と言う言葉に惑わされ、家庭や親子の関係に対する幻想の追求があるのではと考えている。
 この「家庭や親子の関係に対する幻想」は当事者に対しても感じていることである。

 要するに、「面会交流により、子供に対し、良い影響が無ければならない、あるはずである」という、裁判所と当事者の幻想の齟齬の存在を筆者は感じていて、これが、多くの交流遮断の審判の背景にあるのではと考えている。

 念のために書いておくが、物事に無用な意味を求める事は思考や行動を阻害する要因にしかならない。ただ、別居親が子供と逢うに過ぎない面会交流に何かしらの意味を求める事は、危険を察知し回避する原因探し、つまりは、交流遮断の理由探しに他ならず、面会交流をしない方が良いという結論になるのは当然の事である。

 筆者は、親に虐待されて生きてきた者なので、親子や家族と言うものに一切の期待をしていない。自分勝手な理由で離婚と交流遮断を求める親も、自分の態度を顧みることなく無神経に同居や面会交流を求める親も、筆者にしてみれば、子供に望ましい親とは思えない。

 しかしながら、そういう両親との面会交流や同居が、本当の意味で子供の福祉や利益を害するかと言われれば、それは異なる次元の議論であると断じる。

 2、子供の福祉や利益を神聖なものと考えるのは間違いである

 筆者は、面会交流とは、ただ、離婚や別居を理由として、親と過ごす時間を奪われた子供のため、父母が時間や努力、自らの心情を子供の未来のために投資するものであると考えている。
 そして、面会交流における子供の福祉や利益とは、親と子供が無意味かつ無駄な時間を過ごす事の中にこそ存在しているものと考えるべきである。
 その意味では、多くの裁判官や当事者が、子供の福祉や利益を語るとき、これを神聖視しすぎている事も、裁判所が交流遮断という過ちを犯す大きな原因となっていると感じている。

 そもそも、世の中の一般的な家庭における親子の時間とは、それほど美しく、教育的なものであろうか?子供に対する良い影響や悪い影響を社会的に考慮しながら過ごしているものなのであろうか?そのような事を考えながら過ごす、極めてストレスフルな時間が、子供の教育や心理に良い影響を与える訳が無い。

また、「子供の利益」とは、「子供だけの利益」と解してはならない。まして、「子供の利益」を「子供のために誰かを社会的に排除する権利」と解してもならない。
そして、育児とは、単に子供を育てることというものには止まらない。心理学では「成長」と「衰え」を含めた生涯の全過程を「発達」と捉えている。生まれながらにして親になれる人間など存在しない。子供が生まれたら親になれるというものでもない。親も親として親子関係の中で発達をしていると考えるべきである。親も育児を通じ、「親としての発達」を遂げるのである。
当然、子供も親子関係の中で発達をしているのである。

 3、交流遮断は子供の福祉や利益を守る手段にはならない。

交流遮断とは、親子関係の中での親の発達だけではなく、子供の発達の機会およびその中で得られる子供の利益を奪い去る危険がある。そして、裁判所による交流遮断とは、裁判所が法と権力の名の下に、子供の発達の機会およびその中で得られたであろう子供の利益を奪い去ることである。

 筆者は、子供の福祉や利益に対する評価は結果論に過ぎないものであり、その評価者は他の誰かではなく子供自身でなければならないと考えている。
これは、乳児であっても同様である。未来において子供の意思が尊重されない可能性を残す事は、今の面倒を凌ぐための逃避である。子の福祉や利益と言う言葉を通じ、子供を利用しているに過ぎない。

 そもそも、教育に悪い親、子供にとって悪い親とは、要は、子供に拒絶されて終わる親である。

 近藤裁判官、難波裁判官、野口裁判官、飛澤裁判官は、○○さんに対し、「面会交流を実施することによって,子の利益及び福祉を害する恐れのある父親」という理由で交流遮断の決定をした訳であるが、裁判所による交流遮断とは、子供の親に付いて知る権利、重要な事実を隠匿する子供の福祉と利益に対する最大のリスクであると指摘する。
本当の意味で、もし、○○さんが裁判所の認定するような感情的で独善的な父親であるならば、むしろ、直接交流を積極的に行うことで、長女自身が父親の正体を知るべきである。長女は、今は幼すぎ、当然の事ながら自分の父親について何も知らず、何も知らされぬままに人生を始めてしまっている。裁判所による交流遮断の暴挙は、長女に対し、ただ、「臭いものに蓋」をしたに過ぎない。
 世の中には、美しいもの良いものばかりではなく、良くないもの悪いものも多く存在している。その中で、仮に、悪い父親を他人の手で排除して見せたところで、子供の福祉や利益とやらには何らの影響はなく、それどころか、ただ過保護にしているだけである。
 そういう対人関係や社会は、本当に子供を守っていると言えるのであろうか?


四、交流遮断とは、裁判所が子供から親を奪う虐待行為である

宇都宮家庭裁判所の近藤壽邦裁判官は、前置きとして、「面会交流を実施することによって,子の利益及び福祉を害し,これに反するような事態が予想される場合には,これを禁止,あるいは,一定限度制限すべきものと解するのが相当である」と、もっともらしい言葉を並べているが、その後で、「相手方は,申立人の性格が独りよがりで,相手方に配慮する所がない,未成年者の扱いにも配慮が足りないなどとして,申立人を嫌悪する気持ちが強く,申立人と同居することを拒否するばかりか,離婚も辞さない考えでいること,このようなことから,相手方は,申立人の未成年者との面会交流についても,未成年者に悪影響を与えるおそれがあり,さらには,未成年者が申立人に連れ去られる可能性もあるなどとして,極めて拒否的であること,そして,未成年者は,未だ1歳9か月足らずであり,申立人と未成年者の面会交流を実施するには,相手方の協力が不可欠と解されるところ,上記のとおり,相手方は,面会交流に拒否的であり,これに協力することは現時点で期待できないことなどに照らすと,現段階で申立人と未成年者の直接的な面会交流を認めることは,時期尚早であり,相当でないといわざるを得ない」と述べているのであるから、この前置きに意味が無いことは明らかである。

 なぜなら、これは、1、家庭裁判所に対し面会交流調停を申請した時点で、父母の関係は破綻しているので面会交流は子供の利益及び福祉を害する。2、家庭裁判所に対し面会交流調停を申請した時点で、監護親が面会交流に対し非協力的である以上、父母の関係は破綻しているので面会交流は子供の利益及び福祉を害する。3、特に、未成年者が幼く、監護親が面会交流に対し非協力的である以上、父母の関係は破綻しているので面会交流は子供の利益及び福祉を害する。と、父母の関係が破綻している段階で面会交流が子供の福祉と利益に反していると、「夫婦の婚姻の破綻」という言葉を「面会交流により子供の利益及び福祉を害している」と言い替えているだけであり、子供の福祉の観点からは、交流遮断の判断をすべきという結論しか導くことができないからである。

 そして、この婚姻の破綻を理由とした交流遮断の判断こそ、近藤裁判官が、子供の福祉や利益と言う言葉を用いながら、子供の福祉も利益を一切検討しないまま、一方当事者である相手方に対し、格別の配慮をしたことの証左である。 そもそも、近藤裁判官が、面会交流を禁止、制限すべきと考える「面会交流を実施することによって,子の利益及び福祉を害し,これに反するような事態が予想される場合」を恣意的に解している事は請願理由一、の1、で述べた通りである。

 筆者は、このような事態とは、虐待や暴力、または、「裁判所が許容している連れ去り」に対して「裁判所が許容していない連れ戻し」のような、社会的に危険と思われるものと、極めて狭義に解しなければならないと考えている。
 なぜならば、面会交流の申立に対する交流遮断の判断は、法の手続によらない形での裁判所による制裁措置であり、別居親にとっては、罪刑法定主義違反の刑罰に相当する処置となるからである。

 しかしながら、宇都宮家庭裁判所の近藤壽邦裁判官、東京高等裁判所の難波孝一裁判官、野口忠彦裁判官、飛澤知行裁判官は、「父母の関係が破綻している状態での面会交流」と、「夫婦の婚姻破綻」と「子供の福祉を害する面会交流」を混同させる事で、婚姻の審判における、いわゆる「破綻主義」を面会交流の審判にまで拡大させ、一方当事者の拒絶により交流遮断を認め、日本から面会交流を根絶できる理論を構築する暴挙を犯した。

 面会交流の調停及び審判は、面会交流の実現を目指し、その方法を検討する場であり、申立人は、それを期待して申立を行っている。
これに対し、裁判所の姿勢は、面会交流を申し立てられた相手方に対する格別の配慮を示すため、申立人の期待を踏みにじり、交流遮断という法の手続によらない制裁の口実を探す努力に終始しているとしか思われない事例の相談が圧倒的に多い。

 筆者は、裁判所による交流遮断とは、裁判所が子供から親を奪う虐待行為であると考えている。面会交流に対する判断は最終的には子供自身で行うべきであり、裁判官は、その判断の可能性を否定してはならない。しかしながら、今回の○○○さんの件では、子供自身が面会交流を求められるようになるまで、その可能性を裁判所の手によって奪われてしまった状態である事を指摘して本請願を終える。


以上


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