さとう社会問題研究所は、クライアントの要請を受け、以下の意見の文案作成を行いました。

この文案は、「国立市いじめ防止対策推進条例(素案)及び国立市いじめ防止基本方針(素案)への意見募集」に対し、2014年10月2日、クライアントを通じ、国立市教育委員会教育指導支援課に提出されています。

解説:

さとう社会問題研究所では、DV、ハラスメントに限らず、虐待全般に対応しているため、もちろん、いじめも相談対象にしています。
また、相談だけではなく、請願書や意見書の作成のほか、文章の執筆の依頼も受けています。
今回は、東京都国立市の、いじめ対策のパブリックコメントに意見をしたいとの事で、クライアントからお送りいただいた意見の原文を基に、文章を調整しました。

私は、子供の頃、親や周囲の大人に苦しめられ、大人になっても苦しみ続けている立場から、意見を述べさせていただいています。
この意見書も、子供に関するものですので、請願書のページにリンクをさせていただいています。


以下、国立市教育委員会教育指導支援課に提出された意見書になります。
(注:事件の特定につながる情報、当事者の個人情報に該当する部分は表示しておりません)


前略 皆さまにおかれましては平素より、いじめの撲滅のため、ご尽力いただき、誠に感謝しています。

国立市いじめ防止対策推進条例(素案)及び国立市いじめ防止基本方針(素案)を読ませていただいた感想ですが、今回の条例案では、いじめ防止対策推進法の第3章から第5章で定められているとはいえ、具体的な施策の内容が一切盛り込まれていない事もあり、いじめを減らそうとする意気込みを感じる事ができず、子供を持つ親の身には、あくまで法律があるから仕方なくの事という印象しか受けませんでした。

もちろん、いじめ防止基本方針でも、いじめを社会問題として定義し、問題意識を共有することで、いじめの被害を受けている子供たちが学校や教育行政に見捨てられることのないようにする意図は評価されるべきものだと思います。
しかしながら、いじめ防止に対する取り組みの内容も、これまで通り、現状を改善できなかった、ありふれた題目のような内容のため、時間と労力と税金の無駄使いに終わらぬよう、今後の成果として示していただくことを期待するばかりです。

そもそも、これらの素案では、いじめの背景には、どのようなものがあるのか。その点を十分に捉える事が出来ていない、そして、市内外にも伝わらないのではと思いました。
学校が社会であり、子供たちが、その社会の成員であることを考えれば、この条例案と方針案は、子供たちに向けた対策に留まるものです。

学校は子供たちだけが作り出す社会ではない事が明白である以上、その本質的な問題の基盤となる学校や教育委員会、さらには、文部科学省に対し、これまで批判を浴び続けた不適切な対応を防止する内容が、法律から条令、方針まで、充分に盛り込まれていないのではないのでしょうか。

たとえば、いじめの問題がある度に、学校や教育委員会の組織防衛の心理が先立っている事が挙げられます。
いじめの基盤となっているのは、この組織防衛の心理です。
いじめの問題がある度に、組織防衛に勤しむ学校や教育委員会が、いじめの現実を見ない、自殺があっても、現実の被害を軽く受け止める事で、社会や子供たちに対し、今でも、いじめを許容する誤ったメッセージを送っている事が、いじめの根強い基盤となっていると考えるべきではないのでしょうか。

その観点でみると、法律から条令、方針に至るまで、一貫して、いじめを加害者個人の問題に集約し、学校や教育委員会、文部科学省の責務が、外の世界、無関係な立場からの関与であり、その基盤を維持しているという観点からの対策ではない事が明らかでしょう。

そして、この組織防衛の心理は、子供たちにも押し付けられているものでもあります。
子供の事を第一に考えているはずの教師でさえも、公務員、組織の一員としての務めが第一になってしまい、それが、子供に対する視点に曇りをもたらしていると思わざるを得ません。

たとえば先日行われた国立市立第二小学校での芝生完成セレモニーに関するプリントでは、「学校を大事にする子どもを育てる」という言葉もありましたが、これは、学校が子供に奉仕を求める言葉でもあります。
どうして、そのような言葉が出てくるのか疑問です。この言葉が出る時点で、「子どもを大切にする学校」というものが充分に表現されているようには思えません。 そのため、学校が子供のためにあるのではなく、子供が学校のために存在しているという姿勢を改める事が第一であると考えるべきではないでしょうか。

自分が大事にされていない子供に他人を大切にすることを教えられている訳がないですし、強い立場から弱い立場の者に対する奉仕の要求は、さらに、弱い者への奉仕の要求として転嫁されることも、いじめやパワーハラスメントなどの一つの構造です。
学校での先輩、後輩関係によるいじめなどは、正に、その典型ではないのでしょうか。家庭での虐待なら、その世代間伝達とされるでしょう。

また、いじめに関する対策の内容は、第三者委員会などの制度を含めても、現状、機能不全のままです。
その原因は、先の通りの組織防衛の心理のほかにも、文部科学省や教育委員会、学校など、行政組織の延長に学校が存在し、教育行政や公務員制度の延長に生徒児童、そして、保護者や家庭もが編入され、子供や保護者に対する視点や対応も、その立場からのものに留まるからです。

いじめや不登校だけではなく、それに対するいい加減な学校や教育行政の対応により、どれだけ多くのご家庭が破滅的な苦しみを味わっているか。これだけ世間の批判を浴びているにもかかわらず、未だ、それを充分に受け止めている印象を受けません。
子供たちだけではなく、その保護者の苦しみなどにも、一切、目を向けていないから、いじめの問題があると、学校組織の防衛のために全力を尽くし、結果的に、被害者やそのご家族を踏みにじる事になっていると未だ気付いていない事。
その、いじめの二次被害についても、しっかりと考え、それを示し続ける必要があるのではないのでしょうか?
その点、方針では、多少とも、いじめ自体に対する具体的な対策が盛り込まれてはいるものの、二次被害への対策という観点が、つまりは、大人や学校、教育委員会が作り出すいじめに対する対策が、条例での義務付けなど、形式的なものに止まっているため、今後の努力で示していただけることを期待するばかりです。

そして、社会の意識に起因する問題にも着眼されていません。
恐らくは、条例や方針は、いじめ対策を包括的に定めたものに過ぎないからだとは思いますが、大事なところが抜けているだけの感が否めません。

学校では、子供を主軸に考えると言うものの、その学校の存在意義は、労働者を育成するための存在のままであり、子供の個性や人間性が社会に反映できるものではなく、そもそも、それが受け入れられる事がない。
あくまで、社会や組織、国家か経済界の歯車、部品としての価値のみを育むためのものに過ぎません。
当然、勤労者としての適性を欠く者が出ることになりますが、現状、社会では、労働者としての適性を欠く者は、世間の冷たい視線にさらされてしまう事になっています。

その上で、子供は大人のマネをします。子供の行動は、すべて大人の行動の影響を受けていると言っても過言ではありません。
そういう意味でも、「いじめも子供が大人のマネをしているに過ぎない」という視点から考える必要があるのではないのでしょうか。
先の通り、現状の対策では、いじめというものを、あくまで、子供特有の問題として集約して考えている事が明らかで、子供が大人の影響を受ける事に意識が向いているとは思えません。

こういう世間の冷たい視線が学校内でも行われているといういじめの事例、例えば、学校の成績の優劣でいじめが行われる場合もあります。
また、いじめや成績不良の果てに不登校となる子供たちも少なくなくありませんが、不登校に対しても、学校の対応は充分なものとは思えません。
むしろ、不登校に対しては、問題意識を持って取り組むことで、返って、不登校の子供には何かしらの問題があるという印象だけを与えてしまっている悪循環があります。

こういう世間の冷たい視線が許される社会である以上、如何に、いじめに対策を講じても、「大人のマネをする子供」がいなくならない以上、いじめを根本的に防止する事はできず、むしろ、大人は子供たちにいじめを推奨すらしているという事実に変更を加える事ができません。

これに対しては、国立市だけではなく、文部科学省も、学校や子供に対する考えを改めなければ、これまで明らかになった問題を改善できる訳がなく、いじめも不登校もなくなる訳がないと思います。


以上


意見が提出されたのは、こちらです。
国立市いじめ防止対策推進条例(素案)及び国立市いじめ防止基本方針(素案)への意見募集


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さとう社会問題研究所「請願書」